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横井小楠の天道をめざして

横井小楠の天道をめざして

士道と天道

第 4 回 横井小楠に付きまとった「士道」とは?

「士道」つまり侍の生き様のことだが、今に伝えられている士道は実は平和な時代の創作だったのだ。

戦国時代に於いては、だまし討ち、裏切り、主君を変えることは日常茶飯事で、肉親同士での殺し合いも当たり前だった。信じられるのは自分だけ、大田道灌のように忠臣であっても主君に謀殺された。

戦国時代の「士道」とは、生き残ることだったのだ。

徳川の世となり、戦が無くなると、戦国時代の「士道」は危険なものになっていた。身分や領地が固定しているのに、戦国の考えのままでは世の中が安定しないのだ。

元禄の赤穂浪士の事件を転機として、侍の生き様が戦国から徳川安定時代へシフトしたのだ。

また、「葉隠」の「武士道とは、死ぬことと見つけたり」ということも、赤穂浪士とリンクしつつ「士道」を変化させていった。

「士道」が大きく叫ばれたのは、皮肉なことに武士時代の終わりであった。明治の夜明け前、合理主義の侍が出てきたのに相反するように、「士道」を追及する集団が現れた。新撰組である。

新撰組の隊士には、侍もいたが、農民、商人出身の者が大勢いた。
電車マニアが、電車の運転手や駅員の行動にたいして、妥協を許さず、こうあるべきだと真剣に考えているのに似て、新撰組も一種の武士マニアだった。それは、彼らの服装が「芝居」の赤穂浪士と同じであることでもわかるだろう。また、隊の掟もいかにして「武士であるか」であることが優先されていた。

歴史の流れ、現状を無視し、死ぬことを理想とする集団が戦いには勝利しない。その過程が壮絶なので敵には恐れられるが…。

合理主義の明治が始まったのちも、「士道」は滅びてはいなかった。
西南戦争、日露戦争203高地、ノモンハン事件、そして太平洋戦争。

日本が大きく変わるとき、「士道」はヒョッコリ顔を出す。しかも、そのとき周辺に存在する武士でも軍人でもない庶民が大勢巻き添えを喰らっているのだ。
第二次大戦に於いても、「軍人魂(士道)」は、国民を守るものではなく、軍隊という組織を守るために存在し、軍隊が離脱した戦線には多くの国民が置き去りにされた。

あの、血なまぐさい礼儀もへったくれも無い戦国大名も己の領国の民を大事にしていた。そうでなければ、一揆を起こされるし、自国が成立しないことをわかっていたからだ。しかし、江戸以降の支配階級である武士、軍人は国民を守るという発想が無い。支配組織を防衛しているのだ。

横井小楠は「士道」に対して「天道」という言葉を使っている。

「天道」とは?

それは、すべての国、すべての立場に居る人についての普遍的な考えである。
俗に言う、天(すべての者が思う正しい存在)が説く考えなのである。
力あるものが正義なのでなく、誰が見ても正しいことこそが正義なのである。
つまり、天は良心なのである。


それは、支配階級にとってはとても危険な思想である。良心に基づいて人が動き始めたら、支配階級の言うことなど誰も聞きはしないだろう。だから、小楠の思想は「士道」にとって、危険なものになっていった。また、晩年の小楠は「士道忘却」により、生活の糧を奪われた。もうちょっとで命まで奪われかねなかった。

現在の世の中では、まだまだ「士道」が幅をきかせ、組織の不祥事を「天道」により内部告発した人物を「士道忘却」として、排除する風潮がある。
「天道」は確かに理想主義の極致であるが、「天道忘却」することは滅びへの近道であることは、歴史が証明している。




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